個人史:遠藤滋

(1)氏名:遠藤滋

(2)出身地:静岡県清水市

(3)生まれた年:1947年

(4)現在の住所:東京都世田谷区

(5)所属団体:

元光明養護学校教員

『ケア生活くらぶ』発起人/「えんとこ」いえ・まち調査隊コアスタッフ

『自立生活センター HANDS世田谷』利用会員

(6)著作:

『苦海をいかでかわたるべき』(芝本博志・遠藤滋編著)社会評論社

『だから人間なんだ』(白砂巌・遠藤滋編著)販売:ケア生活くらぶ

『えんとこ』(遠藤滋・“えんとこ”上映委員会編著)映画「えんとこ」上映委員会

(7)その他:「えんとこ/ケア生活くらぶ」 URL http://www.entoko-net.com/

 

 

 

◆光明養護学校 ~生徒から教師へ

1947年に静岡県清水市で生まれました。東京都世田谷区の光明養護に入学するために、ちょうど6歳の頃、僕のために家族ごとこっちに移ってきた。入れるかどうかもわからないのに。あの頃は、全国から来ていましたね。当時、まだ養護学校っていう制度がなくて、肢体不自由児のための学校は全国ただ1校だけ。養護学校の制度ができたのは小学校3年生の頃。当時、光明養護に入るためには、選抜テストがあったんです。そう、同級生には、結構いま各分野で、それぞれに活発に活躍している人が多いですね。

小学校・中学校は養護学校だったが、高校からは普通学校。大学はいろいろあって、結果的に7年籍があった。ずっと右足で筆記していたので、授業は長い机の一番右側に座っていた。30cm四方くらいの木の板に、ちょうど座卓の足みたいのをくっつけたのを台にして、その上にノートを置いてね。書く時は、靴下をいちいち脱いだり、教室移動の時に靴下を履きなおしたりね。それが面倒だということもあって、学年があがるにつれて筆記はやめにして、その場で講義をきいているだけということが多かった。今でも学生さん、よくやっているでしょ。試験の前に女の子たちにノート借りてさ、それをコピーして回したり…。どうせそうなるのだから、下手に筆記に気をとられるのではなく、授業は授業で聞くことに集中した方が良いなぁと思うようになって。

学校教師になろうという気持ちもあったことはあったが、僕は作家になりたかった。安部公房なんかが好きだったね。外国だと、カフカとかリルケとかね。結局、教員採用試験を受けたのだけど、願書を持っていったら、窓口で断られた。願書を出すときに、足で筆記させてくれと言ったんだ。それから、足で筆記すると時間がかかるので、通常の1.5倍くらい試験の時間を延長してくれということ。それまでも、高校の入学試験の時からテストの時は試験時間の延長をだいたい1.5倍認めてもらってきた。何で1.5倍かというと、何の根拠もなかったんだけど。実際は、健康な人が手で書く時間の3~5倍はかかっていたんだろうけれど、2倍以上を要求すると、まず受けいれられないということは経験的に分かっていたので、1.5倍と言ったんだ。あともうひとつ、筆記試験ができなかった場合は文句は言わないけど、面接とか健康診断とかで不合格になった場合には、その理由を知らせてくださいと言った。

その結果、ねばりにねばって、試験は受けられるようになった。でも、1年目は不合格。もう一度挑戦して、2年目にやっと合格した。初めから養護学校の教師を希望したのだけど、すんなりといったわけではない。試験に合格してもただ名簿にのるだけで、校長がその学校に採用しようと決めない限り、それだけで終わってしまう。結局、母校である光明養護に採用されたが、水面下の動きは確かにあったらしい。それについては、一切僕には知らされていないけれど。採用は、1974年で、26歳の時でした。当時、府中療育センター闘争があって、新田絹子さんたちや、その兄の新田勲さんなんかが東京都庁前で座り込みをしていた。僕が受験の可否をめぐって東京都教育委員会と交渉していたのと同じ時期です。交渉といっても、その時は自分ひとりで動いただけだったんだけど、府中療育センター闘争の影響はあったかもしれないね。

 

◆障害をもつ国語教師として

授業の仕方は、いろんな工夫をしたことは確かです。本当に試行錯誤で。だんだん養護学校の生徒が重度化してきて、教科の占める位置が軽くなっていったんだけど。僕が採用された頃はまだ教科の枠が残っていて、教科会というのがありました。3人国語の先生が高等部に配属されることになった。僕以外の人は年配だったということもあって、その人たちのやり方みたいなのをなかなか壊せない。枠をはめられているところがあって、思っているようにはなかなかできなかったね。

高等部では、当時はまだ、高等学校の国語の教科書を使ってやっていたのだけど、生徒の状況を考えると、とても無理だし、意味もないと思った。それで、僕はいちはやく、最初は教科書を重んじているような顔をしながら、おなじ単元の目標の中で、教材の中身は別に用意したりね。一番よくやったのは安倍美知子さんの詩。僕よりはいくつか若くて、ちょうど光明養護の教員に採用された年の終わり頃かな。梅ヶ丘の駅にスロープをつける運動にかかわって出会ったんですね。当時、安倍さんは光明養護の高等部を卒業して数年になるかならないかの頃で、区立梅ヶ丘福祉実習ホームに通っていた。安倍さんの自費出版による「二人の私」、それから後に千書房から出版された、「ピエロにさよなら」などの詩集からいくつかの作品を教材として授業をやり、その後で本人に授業に来てもらって、生徒とディスカッションしてもらうとか。さんざんお世話になりました。つまり、自分の障害をどう受け止めて生きていくのかということを考えさせたかった。そういうところからね。僕自身が、職場で思う存分に自分の実践を模索してゆける立場にはなかったのだけれど、その他にもいろいろ試行錯誤を繰り返しながらやっていました。

闘いはね、授業の中身ばかりじゃなくてね。それ以前に僕自身の「身分」についての問題がありました。採用の時点で、職員定数の中に入らないプラス1だったということ。そのことの意味も示されずに、曖昧なまま4月1日からではなく、半月後の16日からの採用とされたことです。

最初の1年は、図書室にこもって新しい本の整理をやらされていた。高等部会の職員会議や全校あわせての職員会議で何回も議論したり、組合を通じて校長交渉を繰り返したりして、やっと翌年から所属と受け持ちクラスや授業がはっきり決まったのです。それで終わったと思っていたんですが、採用されてから4年目かな。頸椎症の症状で、首から肩や腕にかけてひどく痛くなってきて、3ヶ月間病欠した。当然病欠したら代替の人が要求されるはずなのに、来ない。高等部で何故だっていう声が起こって、校長に確かめたら、実は遠藤は定数外の人員だからと。制度的にはありえないことなんです。説明は全然されてない。給料は全く変わらないのだけれど。でも、とても納得できることではなかったので、自らの位置をはっきりさせるべく、闘いはねばり強く続けました。組合はなかなか動かなかったですね。共産党の色合いがとても強い組合で、上部からの司令通りにしか動かない。動きの鈍い組合を、数人の比較的良心的な同僚が支えてくれた。その時々によって違いますけど、少なくとも理解してくれる人はいた。解決したのは8年後の1981年です。

 

◆「青い芝思想」との間で

障害ということに関しては、「青い芝」との関わりが大きかったでしょう。「青い芝の会」には、22歳頃かな、直接には1年間くらい関わった。僕がまだ学生だった時代に。「青い芝の会」は、もともと光明養護を出た人たちのローカルな親睦団体みたいなものだったのだけど、それに「東京久留米園」(生活保護法に基づく救護施設)グループが合流して、障害者の社会的な権利を主張する団体になり始めていたのね。でも、当時の事務局長が使途不明金を出したのをきっかけに、あの頃つぶれかけていてね。一年間ほどつなぎの役割をしたことがあった。総会が定足数に満たず、役員も選出できなかったので、急きょ「改革委員会」という組織を置いて、正式の役員会の機能を代行するという形でね。それを提案したのは僕だったし、その一員としても活動した。あまり大したことはできなかったけどね。ちょうど1970年頃。あの、原一男の映画『さよならCP』の上映運動で、神奈川の人たちが会に新しい風を吹き込み、それが関西にも広がり、ついに全国化しはじめる、ちょうど一年前のことでした。

でも、その後「全国青い芝の会」の指導者になっただけでなく、「全障連(全国障害者解放運動連絡会議)」の代表幹事にもなった横塚晃一さんの、たとえば「愛と正義を否定する」というような、5項目から成る、一見あまりにも過激で、ほとんど行き過ぎにさえみえる行動綱領(事実上“脳性マヒ者宣言”?)に衝撃を受けたことは確かです。でも、それを当時全面的に受け入れられたかというと、そんなことはなかったんだけど。それでも絶えず「青い芝思想」と言われるような、ああいう強烈なものの捉え方との間を行き来せざるを得なくなったのは事実です。…やっぱり現実に自分が脳性マヒという障害をもっているから、絶えずそこへ帰っていかざるを得ない、というようなところがありました。

障害に関して言えば、それともうひとつは、三井(旧姓は新田)絹子さんのこと。ちょうど僕が「青い芝の会」に首を突っ込んでいた時期に、府中療育センター闘争にかかわって。「青い芝の会」の事務局に初めて行った時だったかな。当時、新田絹子さんから内部告発の手紙が来ていて、たまたまそれを読んで、こんな鮮やかな自己主張をする人がいるんだなと共感すると同時に、非常に衝撃を受けたことを覚えています。

もともと「青い芝の会」は、光明養護の卒業生の何人かから、非常にローカルな団体として出発した。それに久留米園の人たちが合流してきたり、それから、はじめは整肢療護園にいた横塚晃一さんや横田弘さん、それに小山正義さんなどのような人たちが、茨城の閑居山願成寺という寺の住職だった大仏空(おさらぎ・あきら)という人の影響を受け、その寺で共同生活を試みながら育ってきた脳性マヒのひとたちが、神奈川に移り住んで来て、この会に加わわったり、という形で、次々とそれに合流した。後に、思想的には閑居山系が主力になってきて、行動綱領をつくったりしたんだけど。ああいう形で表現するしかなかった、その現実的な背景が、当時紛れもなくあったんだなぁ、という重い事実に思い至り、最近改めて気づいたことがあります。そのことも、どこかで書けたら、また書きたいと思っているのですが。

僕が小さい頃、実験まがいの怖い治療が多くの脳性マヒ患者にされていた。また精神主義的な訓練とかね。「動かないのは、心がたるんでいるからだ」みたいな。すっかり病院とか医者に対して、あるいは親たちに対して、当時多くのひとが不信感をもった。それが結果的に二次障害につながっていると思う。医者には行かなくなったんですよ。行っても怖い目をみるだけで、何されるかもわからないという感覚が皆の中にあって。もちろん活動的な障害者が増えて、体を無理に使うということもでてきたけど。35とか40になって、いよいよのっぴきならないような状態になってからやっと医者へ行き出したからね。それまでは、大人になったら症状は固定して、良くも悪くもならないっていうことが定説としてあったし。医者の間で症例がとにかく蓄積されなかった。医者に認知されるようになってから、まだ10年もたっていないんじゃないかな。

最近思いあたったことなのだけれど、戦時中日本が中国大陸で組織していた、例の「731部隊」にかかわっていたような医者が、同じ感覚や発想でやったのではないかと。それこそ、訓練も非科学的で、精神主義的なやり方でしたから。考えてみれば、戦争をやっていた大人たちが10年や15年でそんなに意識変わらないでしょ。今でも体育会系でああいうのは残っているけど。731部隊の人脈を洗ってね。結局、アメリカに研究成果を渡すと言うことで裏で責任を免れて、やったことを問われないまんまできている。医者は人を助けるなんて言っているけど、実はと言うところもあって。僕が生まれる2年前まではやっていたわけですから、こりゃ無視できないと。今から僕自身が調べることなんてとてもじゃないから、「おまえやれよ、家来を使ってもいいからさぁ」とか友人の一人に言ってるんだけど。それが、「青い芝」の人たちが考えた、直感的に捉えていた現実だったのではないでしょうか。

 

◆介助保障の闘いと自立生活

小田急梅ヶ丘駅にスロープをつける闘いが3年。光明の卒業生の横山晃久が言い出しっぺ。結局上下線のホームにスロープがついて、その1~2年後かな。この運動で集まった障害者たちが、介護保障の運動を始めた。呼びかけたのは僕自身。府中療育センター闘争の新田勲・絹子さん兄妹たちよりは少し遅れてね。最初は僕自身も含めて7人で自分の生活を洗いざらい、こういう時にこういう介助が必要ということを書いて。それをもとに要求書をつくって区に提出し、交渉の場を設けろと要求した。でも、最初は門前払い。「父母の会を通して、あなたたちの実情はよく知っている。だから話し合いの場を新たに設ける必要はない」と。何回か区役所の福祉部や区長室に押しかけた。ただ、僕は仕事がありますから、行ったのは最初の要求書を提出した時の行動だけです。代表者は一応僕になっていたから、報告としては聞いていた。「障害者だけではそんなことができるわけがない。誰か裏であやつっていて、彼らのダシに使われているのではないか」という、ある職員の発言があって、皆が憤激して。ついに、第2庁舎入り口のロビーのところに座り込みをした。そのうちの何人かが、ハンストまで始めてね。

座り込みでマスコミに載ったでしょ。それで実現したことは、当時「重度脳性まひ者介護人派遣事業」が月7回か8回くらいだったのを、年度ごとに2回ずつ増やしていくってことと、交渉の場を継続的に設けること。継続した交渉の中で、今度は緊急介護制度。僕自身に子供が生まれていたということもあって、年がら年中緊急なんだから大幅に増やせという要求をする。僕自身のことを具体的に出して交渉していったのは覚えていますね。交渉してかなりの程度上乗せができて、それを使い始めたのは僕が第1号。

とはいっても、それ以前に、僕は例の3ヵ月の病欠の時から、制度とは関係なく、介助者に手伝ってもらって生活の一部を支えてもらい始めていましたが…。そのころでもなお、できないところは、母親が手伝ってくれていた。だから結婚した頃も、ほとんど同じような状況だったんです。そもそもその中から、僕はこの運動を始めた。

いまの僕の生活ですが? 年度初めに介助者募集のポスターとチラシをつくって、ここからだいたい電車を使って1時間半くらいで来られるような範囲にある大学や専門学校に依頼状をつけて送って、ポスターだったら貼ってもらう。チラシだったら学生課か何かのコーナーに置いてもらう。それらを見て来てくれた人で、昼間は4時間毎のローテーションを組む。月曜から金曜は、専従の人を雇っています。推薦登録ヘルパー、東京都の全身性障害者介護人派遣サービス、あと世田谷区の緊急介護制度。3つの制度をつかっている。今は制度通りに使うと、1日14時間ぐらいがやっと保障されるようになった。それでも事実上は10時間分は足りないわけだから、支給される介護料を一度一ヶ所に集めて、それを自分で計算して、再配分しています。

介助者を集めるのは大変。今までも、本当に危機的なこともあった。なるべく自分の安全が守れる程度に水準を保ちながら、なおできるだけ敷居を低くしておいて、多くの人に関わってもらうやり方をとっている。確かに少ない人数の方が楽は楽なのだけど…。ひとりひとりにしっかり介助してもらえるよう、多くの人に共通理解をもってもらうのは大変。時々、どちらがいいのだろうと考えてしまう。でも、関係は広く開いていた方が、本当に誰も都合がつく人がいない時に、誰かを見つけられる可能性が増えるでしょ。結構名簿にはいっぱい書いてあるけど、日常的に来るのはそんなに多くはない。これから一般的にどういう制度がつくられるべきか、ということについては、あまり関心がもてなかったのですがね。逆に心配なのが、遅くとも5年後ぐらいに、いまの「介護保険」が高齢者だけでなく、65歳未満の障害者にも適用されるという計画があること。今の制度との併用という形ならいいのだけど、そうはならないだろうね。世田谷区をつきあげて、どうにかしようとしてみても、いまの「介護保険」がそのまま導入されたら、僕のこの生活の形はいったいどうなってしまうのだろう? そういう危惧や、危機感はあるね。

 

◆共生住宅~命を生かしあって生きる

今僕がやっているのは、家とか街の構造調査。主に自宅のある世田谷近辺ね。詳しい調査結果は、ホームページをどうぞ。良い悪いと評価するのではなく、目的がちゃんとある。役所の役人や専門家に一方的に頼るのではなく、できる限り自分たちの力で、自分たちの生活実感に基づいてする。その上に立って、具体的にこういうものをという計画を出して、それを何らかの形で実現させていく、その為のデータ集め。ま、モデルになるような「共生住宅」みたいなものとして、どんな人をも排除しない住宅のビジョンを出すと同時に、実際に建てるというところまでやりたいですね。これからどこまで自分がやれるかっていうのは、僕にあとどれくらい時間が残されているかどうかに関わってきちゃうけど。ま、いくつかの方法は考えています。そのための調査は、自分たちでする。とりあえず、今ここでは僕を中心にやっているのだけれど、他のところでもやれる人がいたらどんどんやってほしい、という呼びかけを続けています。

公的制度として何かを実現させていくというより、自分を含めて、これまでの“いのち”の事実をないがしろにした、今の世の中のひとのあり方をふり返ったり、ひととひととの関係のあり方を考える、その延長線上に自分は考えてきたので。いわば、いかしあう人間関係の入れ物として「共生住宅」というモデルを構想して。介助するとかされるとかいう一方的な関係性を越えて、個々のいのちをお互いに生かしあうような形でつくっていくというのかな。ひとはやっぱりお互いに一人一人違うでしょ。例えば、得意なことがあったり、苦手なことがあったり、好きなことがあったり、嫌いなことがあったり。それを無理やり横並びに考えてあれこれ言うのではなく、それをそのまま生かして、接点をみつけていって、そういう形で関係を広げていく。そうしたら見えてくる世界が必ずあるという。ここ15年ぐらいの間、いろんな言い方で繰り返し言ってきたんだけどね。まだ伝えきれてないところがあるんだろうなあ。モデル住宅については、はっきり言って、いまのところ絵に書いた餅ですが。それで終わるのか、着実に活動を積み重ねて現実のものにしていけるのかは分かりません。それはこれを読んだひとが、どれだけ本気になって関わってくれるのかにもよるのですが…。

伊豆の松崎町に、交流農場をつくっているんですよ。海岸から車で20分くらいかな。山の中なんですが、10年少し前に土地を確保して、でも、そこにその共同住宅を建てるというわけではないのですけどね。手に入れた時は、ほとんど全部が甘夏のみかん山。それを、山の方を削って、谷の方に落として、整地する作業をずっと続けているところです。今は、はっきり言って、作業のためのプレハブと、廃材で造った物置が建っているだけですけど。整地ができたらね、甘夏だけじゃなくてそれ以外の果樹を植えたり、野菜を作ったりしたい。整地作業をしている途中で見つけたのですが、結構焼き物にいいような土が出るところなので、その土で焼き物をできる作業場をつくろうかなと。毎年1回行きますけど。一応、賛同者と会員とで今のところ50人弱。何年に何を始めたとかいうことは、ホームページに出ています。日常的にあっちにいないので、どうしても情報は少なくなってしまうのですが、これから進捗状況を、できるだけ載せていきたいと思っています。これ自体も、もちろん目的なのですが、東京に「ケア生活館」を実現させるための、手段というか、第一歩とも考えているんです。

発起人は、ふたり。相棒の白砂巖は、僕とはまた違った経歴があって、彼に言わせたら、違った言い方になるとは思うけど、福祉制度はどうあればよいか、といったようなことは僕らはほとんど考えてない。どんな制度でも、できてしまえば、たいして面白いものにはならない。人間関係のあり方を、中味として考えて追求していかないとね。そういう問題意識の方が強くあるもので。ひとりで介護者を集めてなんて、「それは70年代のやり方だ」とか言うひとがいるらしい。外見はそうかもしれないけれども、それ以外の理由があって、少なくとも僕自身は、それをやれるところまで追求してみたいと思っている。それぞれに、皆が、それぞれの立場から活動にかかわってほしいですけれどね。

 

◆ありのままの命に、乾杯!

今、ホームページを結局全面的に管理してもらっている藤原くんという人がいるのですが、片手片足に軽い障害をもっている。でも仕事でも趣味でもコンピューターをやっていて、大学でも専門のコンピューターの勉強をしてきたんだそうです。目茶コンピューターに詳しい。彼と出会えたのも、大きかったですね。

僕自身は、コンピューター画面を見ながら、いつも介助者に文章を打ち込んでもらうんです。ホームページに連載している、「遠藤滋一言集」なんて、最初は軽い気持ちで始めたんだけど、やっているうちに、いいかげんなことを書けない雰囲気にだんだんなってきちゃって。映画『えんとこ』の上演予定も、僕のホームページに載せてある。監督の伊瀬真一のホームページ、“Ise film”の方が新しい情報が得られるかもしれない。『えんとこ』は、僕にとってはごく日常的なあたりまえの風景をただ切り取って編集しているだけで、この何がいいんだとかね。自分の顔がアップで映ったりすると、いやに顔がテカッているなとか、不精髭がはえていてもうちょっと剃っておけばよかったとか。そういった感想しかもてなくて、映画の作品としてはなかなか見られないんだけど。自分の姿が映っていること自体が不思議でね。

いつも言っていることだけど。「誰に何を言われたとしても、自分のいのちの姿を自分で否定したりなんかしないで、他にまたとないいのちなのだから、自分で肯定して、お互いにいかしあって生きていこうよ。」大人がそういう生き方をしていないから、子どもにも今いろいろな問題が起きてきたのだろうし、起こってきてもちゃんと対処できない。だから、そういう意味で、全ての人に対するメッセージです。これも、言葉を少しずつ替えながら、何回も書いたり言ったりしてきたことですが、何回でも言いたいですね。

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